社訓ができるまで

 社訓十ヶ条ができるまでには、創業者である加藤健一の壮絶なエピソードがありました。これを読んで頂けると、社訓十ヶ条の深みを感じて頂けると思います。

昭和44年1月26日の夜、私達は国道17号線、三国峠を走っていた。冬の三国峠は、積雪、雪崩、凍結などにより交通の難所であった。車は私が運転し、弟と友人一人を乗せ、東京での仕事から新潟へ戻る最中であった。夜になり気温が下がり、ちょうどカーブにさしかかると路面が凍結をしていた。そして、私達の車は、そのまま谷底へと落ちて行ったのであった。運悪く、その前の週にトラックがガードレールを破損し、ちょうどその部分だけ、ガードレールではなく、ただロープが張られているだけだったのである。

車は崖を転がり落ち、何回も回転しながら、140mの谷底まで落ちて行った。後で聞いた話では、車は高さ30cmくらいの大きさに潰れていたそうである。幸い、私達は車から投げ出され、その車の中でつぶされる事はなかったが、それぞれ大怪我をした。特に私は、フロントガラスが割れ、その破片が右目に刺さり、右目を失ったのである。それでも、全員、それこそ無我夢中で谷を登り、国道まで自力で助けを求めた。すると、対向車線を走っていた1台の車がUターンをして戻って来てくれたのである。車のヘッドライトが回転しながら谷底へ落ちて行くのを見て、心配になって助けに来てくれたのである。

その頃の私は、家庭の方は長女が生まれたばかりであり、また、親父が病気で明日明日危ないという状況であった。また、仕事面では、和光ベンディングの前身の仕事を始めたばかりであったし、弟の借金の保証もあり、何億という莫大な借金を抱えていた時であった。そんな状態であったので、緊急で沼田の病院に搬送されて入院していたが、一刻も早く新潟へ戻らなければと思い、親戚がお見舞いに来てくれた事を機会に、そのまま、医師の反対を押し切って新潟へ戻ったのである。2月5日夜8時40分に家に帰ると、親父は今にも死にそうな状態であった。糖尿病、肺病、ガン、あらゆる病気に蝕まれ、病魔の苦しみと闘っていた親父であったが、その時は違っていた。私が何とか新潟へ戻り、何とか親父の最後に会えた時、親父はこう言っていた。

「とても綺麗だ。鯉が泳いでいる。とても綺麗だ。」

そう言い遺し、親父は逝った。とても綺麗で安らかな最後であった。

しかし私は、新潟の病院で目を見てもらうと、即入院となってしまい、親父の葬式にも出る事はできなかった。即入院して手術をしないと、もう片方の目もダメになってしまうという医師の判断であった。

その後、幸いに目の方は落ち着いて、もう片方の目が悪くなる事はなかった。しかし、苦しい経営状態、親父の死、精神的に大きなストレスを抱えた私にとって、片目になるというハンデを乗り越える事は容易な事ではなかった。医学的には完治する事はない、片目で一生暮らして行かなければならない事は明らかだった。だから、肉体的には怪我を乗り越えられなくても、何としても精神的には乗り越えて生きて行かなければならなかった。

そんな時、ある本と出会ったのである。私の両親も読んでいた本である。それは、「生長の家」の「生命の實相」という本である。私の伯母が「生長の家」の幹部をしていて、その創始者の谷口先生の著書を紹介されたのである。私は、この「生命の實相」全40巻を一気に読破した。そして、泣き崩れた。

「オレが親父を殺したんだ・・・・・」

そう気がついたからである。それまで好き勝手に生きてきて、親や周りに心配ばかりかけてきて・・・・・。

そして、私は1時間も2時間も泣き続けたのである。すると、それまでひどかった、頭の痛み、目の痛み、足の痛み、いや、体の痛みがパッと無くなったのである。この痛みとの決別と共に、私は片目というハンデを精神的に乗り越えたのである。そして、これまでのプロセスの中で、私が気づいた事、つまり、どう生きるべきか、いや、企業であれば、どう経営すべきか、その理念が完成したのである。

それが、和光の社訓十ヶ条なのである。

最後に、もう一言、お話をしたい。

社訓を作ってから、これまでの人生では、「水」から学ぶ事が多かった。

水は地にあっては、小川のせせらぎとなり、多くの植物や動物に命を与え、人々の生活に潤いをもたらす。あるいは、海にあっては、多くの生命を育み、また多くの人々に豊かさを与える。一方で天に昇れば、とてつもない勢いで豪雨となり、巨大なエネルギーで濁流を作り、山を崩し、里を飲み込んでしまう。この優しさと強さ、創造と破壊、陰と陽、水は相反する二つの面を併せ持ち、また、丸い池に入れば丸くなり、四角い池に入れば四角くなり、まさに自由自在の存在である。この自由自在の姿こそ、経営であり、生きるという事だと学ぶ事が多かった。

「水の命の如く 我もまた生きん」